源頼朝に誅殺された武将 一条忠頼
一条忠頼
生年不明~1184年(元暦元年)
父は武田信義。
元暦元年の源義仲追討戦で活躍。
威勢を振るっていたが、世を乱す野心があるとして頼朝に誅殺された。
この誅殺は、幕府内の酒宴の場で行われ、忠頼の家臣たちも稲毛重成、榛谷重朝、天野遠景、結城朝光によって、討ち取られた。
(「源頼朝と鎌倉」坂井孝一)
元暦二年四月十五日、頼朝は彼の推挙を受けずに朝廷の官職に任官した御家人達を叱責する文書を作成して、京都に送りつけた。
兵衛尉に任官された後藤基清、刑部丞に任官された梶原朝景、右衛門尉に任官された八田知家、兵衛尉に任官された小山朝政に対して口を極めて罵ったとされる。
頼朝があえて激怒してみせたのは、鎌倉殿である頼朝を通じてしか、御家人達が朝廷の伝統的権威・権力と結びつく道がないことを明示し、頼朝による一元的な御家人統制を徹底するためであった。そこには、彼らが後白河を頂点とする貴族政権に利用されることを阻止する意味もあった。
(「源頼朝と鎌倉」坂井孝一)
一条忠頼の誅殺は、この文書が作成される前に行われたが、頼朝にしてみれば、頼朝の政権構想に反するようなことを一条忠頼がしていたため、誅殺に踏み切ったのだろう。