源頼朝に誅殺された武将 上総広常1
上総広常(平広常)
生年不明~1183年(寿永二年)
父は常澄。
平治の乱後は、平家に従っていたが、二万騎を率いて頼朝に参向し、頼朝の再起を決定づけた。
しかし、独立心が強かったため、謀反の疑いで誅殺された。
(「源頼朝と鎌倉」坂井孝一著より)
上総広常は、源頼朝に誅殺されたことは間違いない一方で、上総広常に謀反の疑いがあると頼朝に注進したのが誰で、頼朝が誰に上総広常を討つよう命じたのかはわかっていない。
理由は、吾妻鑑の寿永二年の条が喪失しているからだ。
吾妻鑑によると、源頼朝は、上総広常を誅殺したことを後悔した。
その理由は、上総一宮の神主たちが、上総広常の生存中、小桜皮縅の鎧一領を奉納していると頼朝に報告したので、頼朝はそれを鎌倉に取り寄せ、一見した。
すると、冑の高紐に一封の書状が結びつけてある。開いてみると、上総広常の願文で、頼朝の武運長久を祈ったものであった。
これを受けて頼朝は、上総広常の謀反の疑いで連坐していた弟の天羽直胤、相馬常清達を厚くねぎらって赦免した。